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第46話 殺した人はいない

last update Veröffentlichungsdatum: 21.08.2026 06:01:42

 危険な時に黙って見ていてほしいわけではない。次に何か起きても、景都はきっと動く。その時、私のことまで勝手に片づけないでほしかった。

 店を出る時、景都は会計票を取ろうとした。私は先に自分の分をレジへ置く。

「今日は別々で」

 景都は会計票から手を離した。

 外へ出ても、彼は追ってこなかった。

 望んだ通りだったのに、駅までの道で私は一度だけ背後を確かめた。

 瀬名和恵さんのいる施設を訪ねたのは、その三日後だった。景都から一緒に行くかと聞かれたが、一人で行くと答えた。彼は理由を尋ねず、「分かった」とだけ返した。

 ロビーには折り紙の花と美容室の予約表が並び、消毒液に混じって甘い整髪料の匂いがした。受付横の棚には入居者が使う色見本が置かれ、白髪染めの番号が手書きで書き込まれている。

 和恵さんは窓際の椅子に座り、古い美容雑誌を膝へ置いていた。

「莉子のお友達?」

 最初にそう聞かれ、私は名刺を出しかけてやめた。

「番組で、一緒に仕事をしていました」

「テレビ? 莉
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  • 嫌いだった女が死んだ夜、元夫の愛が怖くなった ――もう一度、あなたを愛せるまで――   第48話 嫌いなままで、いい

     景都は少し眉を寄せ、水のグラスから手を離した。「別に」 視線だけが卓上へ落ちる。「俺は、まだ嫌いだ」「……そうなんだ」「でも、君の服を直したのも、母親にプリンを買ったのも、たぶん本当だ」 私は膝の上で指を組み直した。「嫌いなのに?」「ああ」「変なの」 景都がようやくこちらを見た。「君もだろ」 少し笑ったところへ蕎麦が運ばれ、会話がいったん途切れた。景都の器には葱が少ない。「葱、減らしたの?」「今は少ない方が好きだ」「結婚してた時、知らなかった」「俺も、君がブラックコーヒーを飲むようになったのを知らなかった」 瀬名の話をしていたのに、いつの間にかコーヒーの話になっていた。「事故のこと、もう新しい証拠を探さない?」「是正と補償は続ける。ただ、君のために別の犯人を探すことはしない」「うん。それでいい」 自分で言って、ようやく瀬名の死を追う時間が終わるのだと分かった。 景都は蕎麦を食べながら、私の次の言葉を待っている。事件も契約もなくなれば、会う理由は私たち自身しか残らない。「景都。今度は、事故じゃなくて、私たちの話をしたい」 彼の箸が止まった。「いつがいい」「まだ決めてない。でも、逃げないで話したい」 景都は、予定を決める代わりに一度だけ頷いた。 蕎麦屋を出る時、次に話すのは瀬名のことではない。そのことだけは、二人とも分かっていた。 事故の確認が一段落して三日、景都から連絡は来なかった。私も送らなかった。 これまでは、瀬名の事故記録を確認する、森下との面談時間を合わせる、制作会社から届いた資料を読む――会う理由には、必ず他人へ説明できる名前がついていた。 土曜の朝、洗濯機の回る音を聞きながらスマートフォンを開く。景都とのトーク画面は、前に会った蕎麦屋の住所で止まっていた。 前に自分で切り出した「私たちの話」が、画面の上に残っていた。 そう言ったのは

  • 嫌いだった女が死んだ夜、元夫の愛が怖くなった ――もう一度、あなたを愛せるまで――   第47話 もう、私を守らないで

     一度目の呼び出しで出た彼は、「終わったのか?」と聞いた。「どうして知ってるの」「今日行くと言ってた。時間までは聞いてない」 言ったことを忘れていた。景都は覚えているのに、私の行動を確認する連絡はしてこなかった。その違いに気づくと、少しだけ話しやすくなった。「和恵さん、元美容師だった。私の髪を見て、毛先が乾いてるって」「ありそうだな」「会ったことあるの?」「ない。施設の資料に職歴があった。俺は金曜に行く」 信号が赤になり、横断歩道の前で足を止める。電話の向こうでは、紙を置くような小さな音がした。仕事中だったのかもしれないが、景都は急かさない。「瀬名さんが意地悪だったかって聞かれた」 しばらく沈黙が続いたあと、何と答えたのかと尋ねられた。「服を直してくれた話。答えになってないよね」「和恵さんは、それで何か言ったのか?」 電話の向こうで、景都が何かを置く小さな音がした。私も施設でもらった紙袋を膝から下ろす。「裁縫が下手だったって笑ってた」「それなら、和恵さんは答えが欲しかったんじゃなくて、話したかったのかもな」「また分かった顔する」 電話の向こうで景都が息を止める。「……したか」「した」 少し笑った。「私も、景都に答えを聞こうとした。何て言えばよかったと思う、って」「俺は瀬名さんをよく知らない。決められない」「景都でも、知らないことあるんだ」「ある。増えた」 青信号になり、人の流れに押されて歩き出す。「プリン、持っていかなかった。瀬名さんの代わりみたいで嫌だったから」 景都は否定せず、自分もまだ何を持っていくか決めていないと言った。「じゃあ、向こうを見てから自分で決めて」「ああ。そうする」 電話を切る前、何か聞きかけてやめた。「また」とだけ言って通話を切った。◇ 金曜の夜、景都から短いメッセージが届いた。『面会、終わった』『何を

  • 嫌いだった女が死んだ夜、元夫の愛が怖くなった ――もう一度、あなたを愛せるまで――   第46話 殺した人はいない

     危険な時に黙って見ていてほしいわけではない。次に何か起きても、景都はきっと動く。その時、私のことまで勝手に片づけないでほしかった。  店を出る時、景都は会計票を取ろうとした。私は先に自分の分をレジへ置く。 「今日は別々で」  景都は会計票から手を離した。  外へ出ても、彼は追ってこなかった。  望んだ通りだったのに、駅までの道で私は一度だけ背後を確かめた。  瀬名和恵さんのいる施設を訪ねたのは、その三日後だった。景都から一緒に行くかと聞かれたが、一人で行くと答えた。彼は理由を尋ねず、「分かった」とだけ返した。  ロビーには折り紙の花と美容室の予約表が並び、消毒液に混じって甘い整髪料の匂いがした。受付横の棚には入居者が使う色見本が置かれ、白髪染めの番号が手書きで書き込まれている。  和恵さんは窓際の椅子に座り、古い美容雑誌を膝へ置いていた。 「莉子のお友達?」  最初にそう聞かれ、私は名刺を出しかけてやめた。 「番組で、一緒に仕事をしていました」 「テレビ? 莉子、テレビ好きだったから」  本人が出ていたのに、その言い方が少し可笑しい。和恵さんは私の髪を見て、「毛先が乾いてる」と美容師の顔で言った。 「莉子も、よく自分で前髪を切ってね。私が直すと怒るの」 「お母さん、美容師なのに?」 「母親は別みたい」  笑ったあと、和恵さんは急に真顔になった。 「莉子、意地悪だった?」  正しい答えを探す癖が出た。優しかったです、と言えば嘘になる。意地悪でした、と母親へ返すこともできない。 「撮影の前に、私の服を直してくれました」  口から出たのは、それだった。 「莉子が? 裁縫、下手なのに」 「下手でした。縫い目が斜めで、玉止めも大きくて」 「自分の袖は糸が出たままだったでしょう」 「はい。人の服だけ直してました」  和恵さんが声を上げて笑う。私も少し笑った。死んだ人の話をしているのに、笑っていいのか分からなかったが、彼女は気にしていない。 「昔からそう。人のことには口を出すのに、自分の部屋はぐちゃぐちゃ」

  • 嫌いだった女が死んだ夜、元夫の愛が怖くなった ――もう一度、あなたを愛せるまで――   第45話 あと五分だった理由

     仕事の答えだった。「瀬名さんは戻らない。私が嫌ったことも、安心したことも消えない。それは、なかったことにできないよ」「ああ。俺には直せない」 景都がそう認めたことで、かえって息がしやすくなった。 森下は事故資料を閉じた。「新たな事実が出ない限り、他者関与を前提とした調査はここで区切られます。設備と運用の是正報告は別途続けます」 資料は閉じた。最後まで、誰か一人の名前に行き着くことはなかった。 会議室を出る時、景都が「送ろうか」と聞きかけてやめた。その言葉が途中で消えたことに気づき、私は自分から言う。「今日は電車で帰る。でも、駅まで一緒に歩いて」 彼は理由も距離も確認せず、鞄を持って立ち上がった。 殺した人はいない。 その無力な結論を、私は初めて一人で抱えなくてよかった。 事故の調査が一区切りした翌日、私は景都を駅前のファミレスへ呼び出した。重い話をするには、隣の席で子どもがポテトを床へ落とし、店員が笑って拾っているくらいの場所がよかった。 水のグラスが置かれるのを待ってから、私は言った。「もう、私を守らないで」 景都は眉を寄せ、ほとんど間を置かずに首を振った。「それは無理だ。何かあったら、たぶん俺は動く」「そうやって、すぐ条件を足すところ」「何もしない、は無理だ」 彼は水へ手を伸ばしたが、私の顔を見てグラスを戻した。 スマートフォンをテーブルへ置いた。「会社に電話する前に、まず私にかけて」「出なかったら」「その時は、その時。今から全部決めないで」 景都の指がグラスの縁から離れる。「私の分まで答えないで」 景都は少し眉を寄せた。「怖い?」 私は水のグラスを見た。「また、知らないうちに終わってるのが嫌」 注文を取りに来た店員の前で、会話が途切れる。私はハンバーグを頼み、景都はメニューを長く見た末に焼き魚定食を選んだ。「魚、食べるんだ」「食べる。出張先ではよく頼んでた」「結婚してた時、知

  • 嫌いだった女が死んだ夜、元夫の愛が怖くなった ――もう一度、あなたを愛せるまで――   第44話 私のために用意された女

     森下は“本人の判断が悪かった”とは言わない。「でも、瀬名さんは間に合うと思った」「短絡経路なら一分未満です。戻りの扉を開ける権限がないことも、床が濡れていることも、本人は知らなかった可能性が高い」 私はもう一度、未編集映像を再生した。瀬名がカメラの外へ向かって「今の答え、前だけ使わないでくださいね」と念を押している。声は苛立っているが、特別な決意はない。 ここだけ見れば、瀬名は自分の言葉を守ろうとして死んだことになる。番組に切り取られるのを嫌がり、原本を確認しに行って、その途中で事故に遭った。 でも、たぶん本人はそんな大げさなことを考えていなかった。確認を済ませたら本番へ戻って、あとで私と話して、母親にプリンを買うつもりだった。「私に何か残そうとしたわけでもないんですね」「そのような記録はありません」「番組を暴こうとしたわけでも」「確認できません」 特別な意味が一つずつなくなっていく。それでようやく、彼女の死を誰かの物語にしなくて済む気がした。 映像の最後で、瀬名はスタッフに残り時間を尋ねた。『四分五十秒です』『じゃあ、行って戻れますね』 言い終えると、彼女はすぐに立ち上がる。カメラがまだ回っていることも気にせず、椅子の背へ掛けていた上着を取った。 その程度の判断で、人は近道を選ぶ。大きな悪意も、自己犠牲も要らない。 森下が次の資料を開く。戻り扉の権限不足、前夜からの雨、保守経路の排水不良。 あと五分だった理由は分かった。 死ななければならなかった理由だけは、最後までなかった。 事故の大枠が確定した日、森下は原因を一つずつ読み上げた。 B管理室の戻り扉に対するカード権限の不足。警備アラートの初動遅れ。前夜の雨による床面の濡れ。生放送までの時間不足。そして瀬名自身が、正規の非常階段ではなく保守用短絡経路を選んだこと。 どれか一つだけなら、死ななかった可能性がある。けれど、どれか一つだけを“犯人”と呼べる材料もなかった。「殺した人はいません」 

  • 嫌いだった女が死んだ夜、元夫の愛が怖くなった ――もう一度、あなたを愛せるまで――   第43話 景都は、知っていた

     文字だけ見れば、三人とも商品だった。それでも、救われる側へ置かれている自分の欄が一番気持ち悪かった。私が何を話し、どんな顔をすれば視聴者の同情を取り戻せるかまで、矢印で整理されている。 契約説明の記録では、瀬名には〈対立役〉であること、炎上を含む反応、追加報酬まで説明されていた。ただし、私の印象回復が主目的だとは明示されていない。 マネージャーの記録には、収入の安定を望み、母親の施設費用を負担していたことも残っている。 それが契約を受けた理由のすべてかは、記録にはなかった。 母親、施設、プリン。その三つを並べれば、瀬名を被害者にする物語は簡単に作れる。お金が必要だったから嫌われる役を引き受けた。だから本当は優しい人だった。 けれど、流産のことは契約にない。私を傷つけた言葉まで、生活費のためだったことにはできない。「嫌な女でした」 口にすると、景都が私を見る。「死んだからって、そこまで良い人に直さなくていいよね」 誰へ許可を求めたのか、自分でも分からない。森下は答えず、景都もすぐには何も言わなかった。 企画書の余白には、放送後の反応予測が書かれている。真帆への同情、景都への好感、瀬名への反発。実際の視聴者コメントとほとんど同じだった。「私だけ、助けられる側に置かれてた」「俺は止めなかった」 景都の声は低かった。「君が叩かれなくなるなら、それでいいと思ってた。瀬名さんの方は……見てなかった」「私が望んだわけじゃない」 景都は何も返さなかった。 返事がないまま、企画書の『共感回復』がさらに他人事に見えた。 傷ついた元妻と、嫌われる悪女。企画書の中で、私たちは別々の役名にされていた。 だからといって、好きになれるわけではない。 ただ、彼女を嫌った感情まで制作側の成果物にされたようで、腹が立った。 回収された予備媒体には、瀬名の事前収録インタビューが最初から最後まで残っていた。告発映像も、事故を予告する言葉もない。本人が自分の仕事について話し、スタッフへ何度か言い直しを求める、ただの未編集デー

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